大分県・・・中津市

私の故郷、大分県中津市
大分県北部に位置する中津市は、現在、人口85000人の小さな町で、古くから蘭学が盛んで商人の町としても賑わっておりました。大分県と福岡県の県境付近に流れる山国川は、山国町英彦山(ひこさん)付近を源流として中津市山国町~中津市耶馬渓町~中津市三光に入り福岡県築上郡上毛町に接し、中津市吉富町に入ると山国橋があります。山国橋を過ぎると大きな中州(小祝町)があり、海に向かう河川(山国川)と東側を向かう河川(中津川)の二手に分かれます。中津川河川敷付近に1600年(慶長5年)細川忠興が入封された中津城がございます。中津城は黒田孝高(如水)『黒田官兵衛』が築城し、細川忠興が完成させました。また、黒田官兵衛が築城されたことで町では『姫路町』『京町』と言われるゆかり深い町名が残ります。中津城は形を変えながら江戸時代の大半は奥平家が住居としており、現在も町を見つめております。

 中津城から歩いて5分の場所に福沢諭吉の生家がございます。福沢諭吉は天保時代に生まれ、この生家にて少年時代を過ごし19歳で蘭学を学ぶ為、長崎県光永寺に寄宿しております。郷里の中津で蘭学の必要性を感じ、のちの慶応義塾の基礎を固めようと考えたときに求めたのは身近な人物でした。このときの入門者は6名(小幡篤次郎・小幡仁三郎・小幡貞次郎・服部浅之助・浜野定四郎・三輪光五郎)をはじめ、多くの中津出身者が福沢のもとで学び、実業家、政界、教育界などで活躍しました。その後、大阪へ行き『大阪で蘭学』を学ぶようになるが、周りの方の説得を受け入れ、福沢家の後継ぎを考え『中津には戻らぬ』と伝えながら中津へ戻り身辺整理をして再び、大阪に行き~その後、江戸へ向かわれました。

 江戸では、蘭学塾を開かれます。オランダ語を学ばれ、工芸技術にも熱心でおられたようで硫酸など製造し、あらゆる事に熱意があったと思われます。
中津市には、『黒田官兵衛』・『福沢諭吉』以外に、福沢諭吉の友人でもあり、生涯女房役でもある小幡篤次郎と言われる人物がおられます。小幡篤次郎は福沢諭吉の進めもあり慶応義塾の校長を務め遺言をもって中津市に市立記念図書館を作られました。今では、数多くの子供たちが読書を通じて学んでおり、

また本を読んでいくなか想像、経験を重ね、社会貢献できる人になるように取り組んでいるようです。
 また、小幡篤次郎の従兄弟にあたる西洋歯科医の始祖『小幡英之助』がいます。(以下・英之助と略します)『英之助』は豊前国、中津奥平藩(現大分県中津市)殿町、藩士は上士格にて、小幡家で生まれました。
 子供の頃、『英之助』は叔父の小幡篤次郎、小幡仁三郎の世話になり元気な子供でした。また父親の小幡孫兵衛も篤次郎、仁三郎の世話をしており共に学ばれておりました。この頃、藩校は文武両道に精進し兵学・弓学・砲術・遊泳など学ばれ、兵学は小幡家で小幡孫兵衛が教えておりました。また叔父の小幡篤次郎も若くして藩校などで先生として教えており『英之助』も学び、この頃、福沢諭吉と小幡篤次郎は共に蘭学を学ばれていたと思います。

 福沢諭吉は小幡篤次郎に江戸へ行くように誘います。また両親を説得するようにしていきます。この場面もおそらく『英之助』は見ており、年齢を重ねるごとに医学に関心を持ち、将来のことを見通して行動していきます。当時は各藩で医学の修行が推奨されており、この時代背景が『英之助』の人生に大きく関わり大きく変えていきます。

 中津港から『福沢諭吉』『小幡篤次郎』『小幡仁三郎』『小幡貞次郎』『服部惣九郎』『浜野定四郎』らが江戸にのぼり、後に小幡篤次郎は慶応義塾に入塾し、まもなく塾頭になり福沢諭吉の補佐し、小幡兄弟で塾務を管理、発展、貢献していきます。
時代は大政奉還にて開国され目まぐるしく変遷を見せていきます。
『英之助』は両親を説得し、中上川彦次郎と共に砲術修行の為、大阪へ向かい適塾で洋学を学んでいきます。

 大阪適塾で洋学を通して知識、経験を重ねるなか一通の手紙が届きます。福沢諭吉からでした。手紙の内容は『上京せよ』でした。『英之助』『彦次郎』は、福沢諭吉のもと『小幡篤次郎』『小幡仁三郎』のもとに江戸、慶応義塾へ訪ねていきました。こうして念願を果たした『英之助』(20才)『彦次郎』(16才)は明治2年、慶応義塾に入社しました。
 学問を通じて人間として育つなか、叔父『小幡篤次郎』の勧めで『英之助』は医師になるため修行をしていきます。慶応義塾の隣地で開業しておりました『佐野諒元』のもとで代診生として学ばれ、翌年には外科学を修めるため横浜にいき、西洋医の『近藤良薫』と『シモンズ』から外科学の教えを受けておりました。また『彦次郎』」方は事業家への道に進まれていきました。
 『英之助』は、徳義心を持ち、また手先の器用さから周囲の人から認められ、西洋医の『近藤良薫』が『小幡英之助』人物の保証し、自ら『英之助』を自宅から通わせると伝え、その熱意、表情が『セント・ジョージ・エリオット博士』に伝わりました。しかし、叔父の小幡篤次郎としては『セント・ジョージ・エリオット博士』を受け入れるまで少し時間がかかった様子でした。当時としては叔父の『篤次郎』にとって、複雑な心境かもしれません。
 また『英之助』は何度も何度も、叔父の『篤次郎』に歯科医のこと、『セント・ジョージ・エリオット博士』のことを手紙などで伝えました。夢と希望を持っている『英之助』(23才)は友人などの協力もあり、叔父の『篤次郎』の許しも得て、エリオット博士の診療所で勤めるようになりました。診療所では歯科医を目指す『佐治ツカサ』歯科技工士を目指す『松岡萬蔵』と出会い西洋歯科医学を学び、共に歯科医として歯科技工士として成長していきました。

 『セント・ジョージ・エリオット博士』は医師でもありと歯科医師でもあるという資格を持たれる人物で、『英之助』『佐治ツカサ』『松岡萬蔵』に西洋医療を伝えていきます。その後、三人は共に学びながら別々の道に歩みだします。

 『佐治ツカサ』は、緒方病院の歯科部の主任で働かれ、その後、渡米しサンフランシスコに行かれ歯科医カーグスウェールに二年間判事して、帰国後、大阪にて開業をしております。

 『松岡萬蔵』は、歯科技工士になりエリオット博士から習得し、師以上になっていかれました。今日の日本の歯科技工技術に寄与して点は見過ごすことはできません。
 『英之助』は『セント・ジョージ・エリオット博士』と共に上海に向かわれます。その後、『英之助』は帰国され着実に準備にかかります。

『東京府』

『英之助』(25才)は開業に向けて動き出します。西洋流歯科医として学ばれた『英之助』は口中科ではなく、歯科医として受験を受けさせてもらうように動きます。明治7年に、東京・大阪・京都の三府に医制が布達され、新たに医業を開業するには試験を受け開業免除が必要になり、当時は歯科というものがなく医師に属する口中科として受験するということになっていました。

 そのような時代に、明治8年四月『英之助』一人のために、東京医学校にて歯科での試験が開かれました。『英之助』は医療器材・開業場所など決めて明治8年夏に無事、開業にいたりました。開業して直ぐに噂を聞きつけた多くの若者達が、『歯科医師』として診療される『英之助』のもとへ尋ねて来られました。
『英之助』は門下生として若者達を受け入れるなか、慶応義塾の教え『福沢諭吉』の教えである『皆平等』を取り入れ身分の違いがあっても診療代金は一律であり多くの患者さんと賑わっており充実した日々を過ごしておりました。

 上京して11年目に初めて中津へ帰郷します。また中津に戻るにあたり叔父の『小幡篤次郎』から用を頼まれます。中津に住んでいる(三人の若者を連れてきてくれないか)と同時に、自分が上京してきたことを思い出し、自分で歩んできた道を振り返ります。『歯科医師小幡英之助』の素晴らしいところは、自ら経験されたこと、自ら感じたこと技術を教え、門下生の方に伝え広めたところにあり、歯科医療に対して団結力として強くまとめていかれたことです。

 明治20年には、『小幡英之助』の考え方、口中医ではなく『歯科医』としての思いが伝わり、門下生だけで歯科交詢会を作り、明治21年には他の地域の会派と歯科談話会を発会するなど歯科医として会が展開されていきます。

 また、『小幡英之助』の素晴らしいところは、歯の治療に対して足を運んでくる人々に、安心して受診をしてもらう為、『皆平等』の思いで接し、多くの人々に気持ちが伝わり、常に、感謝の心で出会った人々に対して熱意を伝えていたことだと思われます。

 その後、『小幡英之助』・(備前岡山)出身の『高山紀斎』(江戸麻布)出身の伊沢道盛らで歯科医の団体『歯科医会』を発会し、『大日本歯科医会』では、『小幡英之助』は名誉会長になり、後に、この会は『日本歯科医師会』になりました。
 また、発明家『小幡英之助』は、当時、歯科のイスまで考案され拘っていた点です。この『小幡式治療椅子』を見ていくと、日本人の体格に合った形をしており、また足元の滑車で(ハンドピース)が回転し研磨するようになり、ヘッドレストも固定され口腔内を治療できるようになっています。また、右のテーブルでは、治療に携わる材料が置かれるテーブルがあり、薬液、水などが吊るせるようになっております。明治時代は、局部麻酔がありませんでしたので麻酔医を呼ばれ痛みを軽減し、患者さんがイスに座り、『小幡英之助』当時の治療が思い浮かんできます。

『英之助』は家族に見守られながら享年(60歳)で亡くなられました。
時は、江戸時代末期、大分県中津市に生まれ、西洋流歯科医を伝え、歯科医としての道を開いた人物がいました。
日本で初めての歯科医、その名を『小幡英之助』という。